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僕がキックボクシングを始めたきっかけ→試合を目指すまで(11話をひとつの記事にまとめました)

2024.11.11 | 会長の徒然なるままに。

第1話 僕がキックボクシングを始めたきっかけ。

 

みなさんはじめまして!PLUCK STUDIO 会長の佐々木晋輔(ささきしんすけ)です!

簡単に自己紹介させてください。

僕、佐々木晋輔は1978年(昭和53年)生まれの今年46歳で、生まれは九州の福岡県・直方市(のおがたし)です。超田舎もんです。

高校を卒業して一浪したのち大学の4年間は広島、大学卒業後は某金融機関に入社して社会人になってからは福岡→岡山→広島と各地を転々としてました。

入社3年でその会社を退職後、名古屋にやって来たのは27歳の時、凡そ13年半前の2005年3月27日でした(どういうわけかなぜか鮮明に日付を覚えてるんです)。初めて名古屋に来たきっかけは2005年3月から9月まで開催された「愛・地球博」の会場スタッフを期間限定でやるためでした。

名古屋にやってきたころは半年だけ仕事して終われば地元福岡に戻るつもりでしたが結局のところどういう訳か今の今までずっと名古屋に住み続けてます。きっと名古屋の環境が僕には合ってるんですね。

キックボクシングを始めたのは、社会人一年生になりたての23歳の時でした。それまでは格闘技はまったくやったことはありませんでした。

実をいうと僕は生まれ持っての喘息持ちということもあり、体力はまったくありませんでした。小中学校の頃は喘息の発作でよく学校を休んでいました。高校の時の1500メートル走のタイムはまさかの8分オーバーでした。

「そんな自分が社会人になれば運動する機会はどんどん減ってくる。体力も今以上に落ちるかもしれない。ちゃんと運動して体力をつける習慣を確保しなきゃやばい」とは前々から思っていました。

↑↑↑大学の入学式当日に撮った写真(当時19歳)。後述する23歳ジムに入りたての頃の体型はまだこんな感じでした。。。

元々中学から大学1年まではテニスをやってましたが、テニスだと一人ではなかなか練習もできないので、他の競技をやってみたいと思っていました。

また、スポーツクラブで淡々とトレッドミル走るのはちょっとやだなと思ってたというのと、当時営業職だったこともあり、スーツもTシャツも両方似合う体型になりたいと思ってたこと(当時は不健康的なガリガリの細身でした)、ちょうど大学の友達がたまたまプロボクサーだったことなどがきっかけでボクシングに興味を持ち、始めてみようと思いました。

「ボクシングジム」をYahooで検索してみると、先にページにヒットしたのがたまたま「キックボクシングジム」でした。それを見た瞬間、「あ、パンチも蹴りもあったほうが面白そう」と単純に素直に思い、もともと考えていたボクシングジムではなくそのままキックボクシングジムに入会してしまいました。

 

 

第2話 キックボクシングに通い始めた!(福岡編)

今回は実際にキックボクシングジムに入会してからのことを書こうかと思います。

僕が初めてキックボクシングジムの門を叩いたのは、当時福岡・天神にあった「ヒートスタジオサムライ」というジムで、福岡ですごく有名なあのリアルディールさんの系列ジムでした。僕がこのジムを選んだきっかけは、単純に職場から近いということだけでしたが、見学・体験に行ってみるとすごく雰囲気のいいジムだなと感じ、すぐに入会しました。入会したのは2002年5月・23歳の時でした。

格闘技にはまったくの素人だった僕は、これまでキックボクシングの試合を一度も見たことがなく、ルールもよく知りませんでした。テレビでK1の試合は見たことはありましたが、キックボクシングルールとK1ルールに違いがあることも知りませんでした。もちろん「キックボクシング」「ムエタイ」「K1」「シュートボクシング」など競技の名前くらいは聞いたことありました。

ただ知ってるのは「パンチと蹴りは出してOK」ということくらいで、明確なルールの違いは全く知りませんでした。実際にキックを初めてみてもしばらく数年はルールの違いは知りませんでした。というかそこにあまり興味はありませんでした。

僕がキックボクシングを始めた当時の目的は、単刀直入に言うと「運動不足解消」のためでしたから、言ってしまえばその頃は「飽きずに楽しく運動さえできれば」よかったんですね。

サムライジムにはクラスレッスンがあったので、毎回そこに参加させてもらい、キックボクシングのパンチの出し方、蹴りの出し方、フットワークの使い方、ディフェンスのやり方など、わかりやすく丁寧に基本を教えていただくことができたので、楽しくジム通いを続けることができました。

もちろん最初から上手く動けるわけもなく、初めのうちは「変なフォームだなー」「周りの会員さんみたいにきれいに動けないなー」「いつも同じタイミングでローキックもらっちゃうなー」などもどかしい気持ちも正直ありました。それでも週に2回コツコツ通って入会3か月過ぎたころくらいに、ほんとに少しずつですが自分なりにも「前に比べると少しは上手くなってきたかな」とも思えるようになり始めてきました。

 

 

第3話 キックボクシングを始めて3ケ月~6ヶ月が経った頃

今回は僕がキックボクシングを始めて3ケ月~6ヶ月経ったころ感じたことを書きたいと思います。

前回にも書いたように、キックボクシングジムに入会して、はじめから順調に上手にキックの基本動作が身についたわけでもなく、パンチを出すことも蹴りを出すこともフットワークもディフェンスも何もかも動きがおぼつかなく「なんだかもどかしいなー」と思うことばかりでした。それでも、クラスレッスンに毎回参加したり、トレーナーさんにミットを持ってもらったりして、その日のいい所を褒めてもらえた時はすごく嬉しくて、毎回、「褒めてもらえるように」トレーニングを頑張っていた記憶があります。

週に2回コツコツ通って入会3か月過ぎたころくらいに、ほんとに少しずつですが自分なりにも「前に比べると少しは上手くなってきたかな」とも思えるようになり始めてきました。

どのジャンルでもそうだと思うんですが、ある程度技術が上がってくると、「楽しさレベル」が急激に上がってくるんですよね!きっと動きがカラダにしみついてきて、「心の余裕が出てくる」んですね。

そうなると、自主的に技のコンビネーションを新しく考えてみたり、技を出すタイミングを変えてみたりしてみて、マススパーリング(相手に寸止めもしくは軽く触る程度の試合形式の練習)で試してみて上手くいくと嬉しかったり、上手くいかなかった時はその原因を考えてみたりしてみるといった練習プランを考えることもどんどん楽しくなっていきました。

そうこうしてジムに通い始めて半年ほど経った時には、マススパーリングの攻防練習もある程度できるようになりました。

その頃くらいからでしょうか、何を思ったか「街ナカで誰かケンカ売ってこないかなー」なんて思っていた時期もありました。

正直ケンカがしたいわけではありませんでしたし、もちろん自分からケンカを売ることもありませんでした。ただ、「自分のキック技術がストリートで通用するのか」試してみたい気持ちはあったんだと思います。

まだこの当時は病弱で体型もカリッカリのヒョロッヒョロでしたし、「そのヒョロッヒョロがケンカ売られて返り討ちにする」というマンガのワンシーンにありそうなことを期待してた時期もありました。

 

冷静に考えると、ケンカになればそこには「ルール無用のなんでもあり」ですし、相手は自分の想定してないことなんて当たり前にやってくるのに、そんなことも思いつかない位おめでたいやつでした。

今思えば「なんて危険なこと考えてたんだろー」ってぞっとします(笑)。何もなくてほんと良かったです。。。皆さんケンカはダメですよ(笑)。

おかげ様でその後もジム通いは楽しく続けることができました。

 

 

第4話 社会人2年目。岡山転勤になって。

僕がキックボクシングをスタートしたのは、社会人1年目の5月でした。そこから週2回約1年間コンスタントにトレーニングを続けて、だんだんとキックボクシングの基本(攻撃フォーム・ディフェンス技術)も身についてきました。でもまだまだ体力・スタミナ面ではまったくダメでした。3分のミットを1ラウンドだけやってもあっという間にバテていました。今思えばこの頃のキックボクシングをやる主な目的は体力強化というよりは、「ストレス解消」でした。それほど体力はついていなかったですがそれでも楽しくジム通いはできていました。

社会人2年目にちょうど入った時、会社より転勤の辞令が急きょ出て、4月より「岡山へ転勤」することになりました。ほんとに「それじゃぁ、来週から行ってもらうから引越しの準備しといて」といった感じでびっくりするくらい急で驚きました。そして福岡支店での最低限の引継ぎを終え、岡山へ赴任しました。

岡山支店では、社会人2年生になったからということもあったのか、福岡時代以上に仕事の拘束時間が長くなりました。「朝7時半から夜23時まで仕事」とかは普通でした。休日出勤も当たり前のようにありましたし、そのおかげでなかなか運動できる時間も取れませんでした。

そもそも当時は通える範囲にキックボクシングジムがありませんでした。唯一、職場近くのボウリング場のある広い施設内に、板張りのフロアで、そこにサンドバッグが吊るされている場所があり、そこをごくごくたまに時間ができた時に都度利用していた程度(2~3ケ月で数回)でした。

その時自分が持っている道具はパンチンググローブだけだったので、シャドーとサンドバッグ打撃程度しかできませんでした。そもそも一緒にトレーニングする仲間もいなかったので対人練習はできませんでした。それでもそれなりにストレス解消にはなっていました。

 

 

第5話 社会人3年目。またもや転勤!(広島編)

社会人2年目の時、岡山支店への配属になり、岡山では自宅・会社周辺には当時通えるキックボクシングジムがなく、数回だけキックボクシングの一人でできる範囲の自主トレをやっただけでした。岡山にいたころは正直、体力強化にもキックボクシングの技術アップにもなっていなかったと思います。ただ、仕事で抱えた「ストレスの解消」には大きく効果がありました。

岡山支店勤務が1年を過ぎて少し経った頃、今度は「広島支店」へ転勤の辞令が出ました。2004年7月より広島支店勤務となりました。

広島には、大学生時代に4年間ずっと住んでいましたので、土地勘は残っていて、新たに覚えることは比較的少なかったです。それよりももっと助かったのは、「通えるところにキックボクシングジムがある」ことでした!「これで定期的にストレス解消ができる!」本気でそう思いました。

そのジムは職場(中区紙屋町)から歩いて行けるところで、当時の「広島市民球場」と「平和記念公園」の間の電車通りを東にまっすぐ進むとある「Studio-K」というジムでした。Studio-Kジムはリングのある常設ジムでしたので、実戦形式でより本格的にキックボクシングトレーニングを行えるジムでした。プロ選手を何名も抱える広島では有名なジムでした。

初めて見学に行った時、なんと大学時代の友達が練習してました!大学卒業までは定期的に遊んでいたので、かれこれ3年半ぶりの再会でしたが、まさかこんなとこで再会するとは!とびっくりしました。実は僕の大学時代はゲーセンで「ダンスダンスレボリューション」に超ハマっていた時があったのですが、その頃のゲーセン友達で且つバイク友達でもあった通称「南十字アキラ」がそこにいました。ちなみに大学生だった当時は南十字アキラの本名は知りませんでした(笑)。

「ジム通いするんだったら一人でも知り合いがいた方が通いやすい」と素直に思い、体験利用した後に、正式入会しました。

実はこれまで、一度も「リング」に入ったことが無く、表情や態度には出しませんでしたが、初めてリングインした時は正直、「すごくテンションが上がった!」と同時に、少し「ホッと」もしました。というのも「ハバを利かせた強い選手たち」に「お前みたいなペーペーがリングなんか使うなよ」とか言われたりしないかなぁとか思ったりしてたんですが、そんなことを言う人はいませんでした。そもそもStudio-Kには変な練習生を見たことはありませんでしたし、当たり前といえば当たり前なんですが(笑)。

かくして、広島での新しい生活が始まりました。

 

 

第6話 広島でのキックボクシング生活。

広島でも、週に2回のペースでのジム通いでした。Studio-Kジムも福岡のサムライジムと同様、クラスレッスンと自主トレが両方できるジムでしたが、この時の僕はもっぱら自主トレばかりに専念していました。自主トレメニューは、練習相手がいない時は、

①軽い準備運動、②ロープ(縄跳び)2ラウンド、③ストレッチ、④シャドー3ラウンド程度、⑤サンドバッグ3~5ラウンド、⑥ミット2~3ラウンド、⑦サンドバッグ2~3ラウンド、⑧シャドー1~2ラウンド、⑨補強(筋トレ)

といった流れでトレーニングをしていました。練習相手がいる時は、ウォーミングアップが終わったタイミングで、ディフェンス練習を主体とした対人練習もやっていました。

ディフェンス練習は、パンチ・キックそれぞれのディフェンス(ブロッキング・パリング・カット・捌き等)をラウンドごとにテーマを決めて丁寧に時間をかけて基本動作の反復練習をしました。

一通りの基本練習が終わると、マススパーリング(相手に当てないもしくは軽く触わる程度の試合形式の練習)を数ラウンドやることもありました。

自分で言うのもなんですが、練習は真面目にやっていたので、所属のプロ選手やベテラン選手から可愛がってもらうことも少なからずあり、いろいろなアドバイスをいただくことができ、すごく勉強になりました。

Studio-Kジムでの練習ができた期間は半年程でしたが、すごく充実した時間でした。

 

 

第7話 福岡帰郷そして名古屋へ。

半年ほどの短い期間ではありましたが、広島でのキックボクシング生活は、仕事で生まれたストレスの解消やキックボクシング技術習得のためにはすごく有意義な時間でした。

ずっとここでジム通いを続けたい気持ちはありましたが、当時勤めていた会社を退社することになり、地元福岡へ戻ることになりました。2005年の2月のことでした。

福岡に戻ってからしばらくはそれほど急ピッチで次の仕事を探し始めたということでもなく、久しぶりの実家でおかあちゃんの手料理を食べたり、自宅周辺の田舎道をドライブしてみたり、同級生の家に入り浸ったり、中洲で飲んだくれたりといった割と自由奔放な時間を過ごしていました。

はっきり言って実質的にはN.E.E.T.でしたね(笑)。

とはいえ、ずっと長いこと働きもせずに実家に入り浸ることもできませんし、「そろそろ仕事でも探そうかな」と再就職活動のやる気がほんの少しだけ出てきたのは実家に戻ってから1か月半以上過ぎた頃でした。

ただ、ハローワークで仕事を探しに行っても、そもそも自分がどんな仕事に就きたいのか自分でも分かっていませんでした。

ただ何となく検索画面をタッチペンでツンツンしてるだけの日が何日もありました。

そんな日が続いていたんですがそんなある日、検索画面に愛知県名古屋市で開催期間中のみの住込みで「愛・地球博」に関する仕事の求人が目に飛び込んできました。

業務内容は「愛・地球博サテライト会場(ささしまライブ)の入場客および業者のパスチェック」でした。

その当時の僕は前職(金融機関での営業職)で受けた精神的ダメージが著しかったので、正直そこまで仕事に対してやる気があったわけではなかったし、「一生の仕事にするつもりはないけど半年くらいなら自分の知らない土地で、言われたことだけとりあえず淡々とこなしてれば文句の言われない業務内容で、心の気分転換するのもいいかも」と思い、この求人に応募し、無事に内定をいただきました。

それが僕の名古屋に行くことになったきっかけ(2005年3月)でした。

 

第8話 名古屋生活スタート!

以前、第1話でも書かせていただいてたんですが、僕が初めて名古屋にやってきたのは、2005年3月27日㈰で、愛・地球博サテライト会場での勤務のためでした。

勤務内容は、万博会場での利用客及び業者のパスチェックでした。深夜勤務だったため、ほとんどは営業終了後の万博スタッフの退場管理や、深夜の施設工事業者等の入退場管理がメインの仕事でした。

休日は概ね週に1日程度でした。住まいは中川区・ヨシヅヤ太平通店の近くで、2LDKの間取りに4人暮らしでした。家賃・光熱費等の住居費用は会社がすべて持ってくれたのですごく助かっていました。半年限定ということもあり、共同生活も割と楽しく過ごせました。

田舎者の僕にとっては、名古屋という土地はすごく魅力的で、福岡とはまたテイストの都会で新鮮でした。

しばしば勤務後、昼から栄や大須によく遊びに行ってました。目の前に広がる風景がいつも新鮮だったので、「働きながらリフレッシュする」という目的で来ている僕にはすごく合っていました。

時間が経つのはあっという間なもので、半年なんてすぐに過ぎてしまい、任期が満了間近になって来ました。

任期満了後の自分の選択肢は、「①福岡(実家)に戻って就職活動する」、「②このまま名古屋に残り、名古屋で就職活動する」の二つでしたが、実際はあまり考えずほぼ即決で名古屋に残ることを決めました。

僕が名古屋残留を決めたのは、「①名古屋の居心地がよかったから」、「②愛知県は比較的仕事が探しやすかったから」、「③地元で通えそうな場所にキックボクシングジムが無かったから」といった理由からでした。

万博開催期間中から名古屋での次の家や仕事も探していて、幸い、順調に新しい家も見つかり、仕事の内定もいただくことができました。

そのまま無事に愛知万博の仕事も任期満了を迎え、10月より新たな生活を送り始めることになりました。

 

第9話 万博が終わってから。

2005年9月に愛知万博関連の仕事を無事に終え、翌10月から新しい仕事にも就くことができ、新しい環境での生活が始まりました。

新しく就いた仕事は、銀行の子会社で、主に銀行の本店・支店間を行き来して、重要文書や手形・その他の貴重品等を運んだりする仕事でした。

この仕事のいい所は、「多少の残業はあるものの、勤務開始時点でその日の終業予定時刻がある程度読め、終電までエンドレスで仕事が終わらないなんてことがない」ということでした。

ほとんどの場合、18時半までには退社することができていました。

以前働いていた金融機関での仕事は平日は23時過ぎまで会社にいて、土曜日も出勤することなんてザラでしたので、17時半定時退社できた時なんかは「もう帰っていいの?」って思ったこともありました。

入社して半年くらい経ったころには仕事も覚えてきて、さらにもう1年後くらいには新しい生活のサイクルもうまく回り始めてきて、心の余裕も出てきました。それまでやってこれなかったキックボクシングをついに名古屋でも始めようと思えるようにもなってきました。

僕が初めて名古屋で入会したジムは、名古屋市西区にあるムエタイジム・キングムエさんでした。

キングムエ代表の佐藤孝也会長は、プロ現役時代には「頭脳派キックボクサー」して知られ、全日本フェザー級・ニュージャパンライト級の二階級チャンピオンにも輝き、引退後も子供から大人まで幅広く後進の指導に尽力されているすごい方で、

僕が在籍していた約半年間には、佐藤会長から特に「ジャブ・ワンツーとその際の足運びの理論とその重要さ」をみっちり教えていただきました。

この期間で得た経験は今も自分のキックインストラクターとしての指導指針にも強く影響を与えています。

 

第10話 キックボクシング本格始動!

初めに通ったジムは、ホームページで検索して、すごく興味を持ったことがきっかけで入会したキングムエさんでした。

前回のブログでも書きましたがここで学んだキックボクシングの「基本姿勢やジャブ・ワンツー、基本ステップの重要性」などをみっちり教えていただき、ものすごく大きな学びでした。

その後のキックインストラクターとしての指導指針にも大きな影響を与えるほどでした。

本当はもっとたくさんのことをここで学びたかったのですが、少し家からの距離があったことが要因で通い続けることが実際難しく、残念でしたが退会をさせていただきました。

それからまたしばらくキックボクシングをやらない日々が続きました。 会社と家の往復ばかりの生活がしばらく続きました。

そんな生活が数か月続いていたある日、なんとなく自宅のパソコンでネットサーフィンをしていた時、「家から自転車で15分くらいのところにキックボクシングジム」があることを知りました。

そのジムは「Axis-J GYM」という名前でした。

その当時はキックボクシングの団体についてはよく知らなかったのですが今でもプロ興行を行っている「J-NETWORK」という団体の「提携ジム」でした。

Axis-Jの石垣会長は「極真マスターズ世界大会優勝」という輝かしい経歴の持ち主で、空手のメソッドに基づいた打撃理論をわかりやすく指導してくれる師匠でした。 ずいぶんとお世話になりました。

今もめちゃめちゃお世話になってます。

当時の名古屋のキックボクシングジムは「ジムオープンからクローズまで自主トレオンリー」のジムがほとんどで、「プロ選手・チャンピオン育成」に注力されるジムが多かった気がします。

実際、愛知・名古屋はキックボクシングやムエタイのチャンピオン輩出がすごく多く、日本チャンピオンのみならず世界チャンピオンも多く出ている地区で、今もなおスター選手が数多く活躍しています。

一方で、Axis-J(J-NETWORKシステム)の特徴は、プロ選手育成というよりは、「初心者向けのクラスレッスン(合同練習)が毎日ある」ということでした。

今ではさほど珍しくなくなってきましたが、プロ選手になることに重きを置かないクラスレッスン中心のジム運営を展開していました。 それでいて所属のプロ選手(しかもランカー!)もいて、インストラクター陣も充実していて、試合に出たい会員・アマチュア選手もバックアップしてくれていました。

ちょうどその時、入会キャンペーンもやっていたということもあり、無料体験クラスに参加させていただいたのち、入会させていただきました。2007年4月でした。

 

第11話 Axis-J GYM での練習の日々。

前回は名古屋・栄にあるキックボクシングジム「Axis-J GYM」に会員として入会していく経緯について書かせていただきました(前回のお話についてはこちらから)。

2007年4月より、栄のジムでキックボクシングを再開することができました。

Axis-Jは当時、名古屋・栄にある唯一のキックボクシングジムで、僕にとっては自宅から自転車で15分前後という非常に通いやすい立地でした。ジム内の雰囲気は、選手育成に主眼を置いた「ピリピリした緊張感のある空気」ではなく、どちらかというと「ライトな空気感でアットホーム」といった感じでした。

「クラスレッスンもあってインストラクターが気軽にミットも持ってくれて、自主トレ時間には自由にサンドバッグが打てる」というのは、僕にとっては非常にありがたい環境でした。

また、当時のAxis-Jは、キッククラス(入門・初級・中級クラス)の他、「護身術クラス」・「カラテクラス」・「シェイプリーキック®(キックボクササイズ)」・「エアロビクス」・「ヨガ・ピラティス」・「ライトスパーリング」など、クラスレッスンの種類が多彩でした。家から通いやすい格闘技ジムでこれだけのクラスレッスンがあるのは僕にとってはとても魅力でした。インストラクター陣もすごく充実していて、魅力的な方ばかりでした。

週に3~4回ほどジムに通い続けました。そうするとそれなりにキックの技術も上がってきました。そんな日々が数か月続きました。

楽しかったので、キッククラスやキックボクササイズクラス、ライトスパーリングクラスなど、ほぼ毎週参加していました。そうすると自然に攻撃技術・ディフェンス技術も向上してきました。

そうするとこれまで「運動不足解消」のためだけにやっていたキックボクシングでしたが、すこしずつ次の目標が見えてきました。なんと、ついにある日、「試合に出てみたい!」と思い始めるようになったんです!

自分でもまさかの心境でした!あの「喘息持ちの病弱で体力の無かった僕」が「殴り合い」の試合に出てみたいなんて思うなんて!自分でもびっくりでした!

ある日、試合出場希望の意向を会長やインストラクターに相談したら、「全力で応援してくれる」とのことでしたので、10月に開催の「佐々木史上初の格闘技の試合出場」に向けて「選手用のトレーニング」を始めることになりました。

28歳の夏でした。

最後までお読みいただきありがとうございました!

つづきはまた書きます。